2015/06/23 Category : 未選択 映画「チャッピー」〜ユリ熊嵐を添えて〜 先日偶然見る機会があったアメリカの映画「チャッピー」が私の中でかなりの衝撃を与えてくれたのでアニメ「ユリ熊嵐」も交えながら感想を書いて行きたいと思います。( !!??) いやもうタイトルの時点でもうわかんねえなコレって感じなんですが今年の冬に放送されていた幾原邦彦監督の「ユリ熊嵐」が私の中で大きな革命を起こしてくれたためどうしても例に出して交えて書きたくなってしまいました。 なので以下書いて行く感想は「チャッピー」はもちろん「ユリ熊嵐」も見ている前提で書いて行くよく分からないハードルの高さになっています。よろしくお願いいたします。 ネタバレもあります〜 まずこの映画は「人工知能をもつロボットの成長と人間との交流を描いた作品」というふれこみの映画でした。その情報を聞いて私は「ロボットと人間のふれあいを描いた心温まって泣ける切ない話なんだろうな…そこにスパイスとして人間の残酷さとか…」というよくあるストーリを予想していました。 もちろんその要素も多分に含んではいたのですが根幹は全く違う作品で上映が終わった後呆然としてしまいました。 アメリカ社会や宗教への皮肉、死とは命とは?魂とは?、モラルとは?、そして今後の人間のたどる道とは?という熱い感情と頭を抱えたくなる問題を真っ正面からぶつけてくる映画でした。 なによりこの作品が迎える答えであるラスト10分間。 このラストは見る人によってそれぞれ見え方が全く違ってくるのではないでしょうか。 ●それでは作品の中身に感想も交えながら触れて行きます チャッピーは感情を持つ最初のロボットとしてこの世に誕生します。はじめは赤子同然のような振る舞いで見る者の庇護欲や母性本能をくすぐってくれます。作中でもギャングのとんでもない悪女だと思っていたヨーランディがチャッピーと触れ合うことで、どんどん母親のようになって行きチャッピーに絵本を読んであげるシーンなどとても印象的です。そこで読まれた「黒い羊」(真っ白な羊達の中で一匹だけ異質な黒い羊の話)について語られた死についての話、大切なのは中身という話がラストでとんでもない繋がり方をして行く事になります。 そうして、ヨーランディと一緒に新しいものを学習して喜ぶチャッピーの姿は大きな赤ちゃんを見ているようでかわいくてたまらないものがありました。 しかしそんな暖かな場面だけではない、現実は残酷である。 ヨーランディの仲間であるニンジャとアメリカ(2つとも人名です)はチャッピーをどうにかして優秀な兵器として育てたい。そのためにチャッピーをギャングの子ども達がいる荒れ地に1人放り込みます。そこで彼は子ども達から暴行を受けてしまいます。その時のチャッピーの発した「現実は嫌だ」という台詞も心にくるものがあります。 さらにキツいのがチャッピーへの暴行が一番残酷だったのがギャングではなく私利私欲に走った敬虔なプロテスタントのエンジニアだったところです。彼、ヴィンセントがチャッピーに向かって「お前は空っぽだ!」といいながらチャッピーの頭を開いたり腕を切断するシーンなどは思わず目を塞ぎたくなってしまいます。 チャッピーの制作者であるディオンも悪事などは絶対にせずお前は清く正しく有るべきなんだ!と詰め寄ります。そして2人の間で「絶対に悪事は働かない」という約束を交わします。このあたりは現実の子育てに関わってくる問題にもなるのでしょうか?ゴロツキのギャングとカッチカチのエンジニアが教育について「俺の方が正しい!」と言い合ってる姿はなんとも噛み合ってないチグハグさで見ていて謎の面白さすらありました。しかしギャングの目の前で「こんな生き方はクソなんだ!」ってチャピーに教えてるディオンもなかなか肝が据わってる。 こうして、チャッピーはわずかな時間の間に様々な人間に触れる事で世界の暖かさと残酷さ。正しい事と悪い事をとてつもないスピードで学習して行きます。 そしてその中でチャッピーは自分の命がバッテリーが切れたらもうすぐ終わってしまうという事実を知ってしまいます。 このシーンで生きるとは他の何かを踏みつける事、死んで行った闘犬とそれを餌にする闘犬を提示することで印象的にしています。弱肉強食シャケ肉サーモン! 死にたくないという感情を露にしたチャッピーはニンジャの「生きたいなら奪え。」という言葉のもと、「現金が手に入ったら新しいボディを買ってくれる」とニンジャと約束をし、悪事に手を染めて行きます。ここで起こるディランとの約束や、善意との葛藤も好きです。死にたくないから奪う。でも傷つけたくないし銃も持てない。傷つけてしまった人に対して「許して」と囁きもします。 そしてこうした悪事がチャッピーを追いつめます。チャッピーに廃棄命令が出され、ヴィンセントが自分の作品であるロボットを操り襲撃を始めるのです。このヴィンセントの描写は人を殺しているにもかかわらず、ゲームを楽しむかのような残虐なものとして描かれています。神を敬う信徒という設定を与えられていながらのこの矛盾。彼については詳しく後述していきます。 ヴィンセントの襲撃によりチャッピーたちは壊滅状態に陥ります。母であったヨーランディ、友であるアメリカが命を落としてしまい、創造主であるディオンも銃弾を受けて瀕死の状態に陥ります。チャッピー自身も満身創痍でボロボロである事に加えすでにバッテリーが切れかかりもう持たない状態です。そんな中で彼が選択した方法とは「意識を完全にデータ化し新しいボディに移し替える」というものでした。さらにそれは人間であるディオンにも適用させて実行しようとしたのです。 そしてその方法は成功してしまうのです。 意識を移された新しいディオンは思考も記憶も完全にディオン本人でほんとうにそのまま魂だけ移ったかのようでした。そうして朽ちない体、永遠に存在出来る意識を手に入れた2人は工場を後にします。 さらにそれだけでは終わりません。チャッピーは以前実験でヨーランディの意識もデータ化しており、そのデータが書かれたチップが存在していたのです。そのデータを元にチャッピーは ロボットとして新しいヨーランディを作る のです。そうして新たな肉体を得て彼らはハッピーエンドという結末でこの映画は完結となります。 ●それではここから更に詳しく個人の解釈や意見も書いて行きます ●まずこの映画で明確な悪役として描かれていたヴィンセント 彼は最初から宗教上の理由、神への冒涜となるという理由により「人の形のロボットや人工知能は認めない」という意見を述べています。彼の設計したMOOSEもそんな思想をもとに制作されており、完全に人間が制御して操る無骨なロボットとなっています。 そしてそのMOOSEを操り敵を殺して行くヴィンセントですが、その彼の姿は完全にゲームを楽しむかのような残忍な姿でした。 ここで何故信仰に熱心な彼がこのような行為に及ぶかの疑問が生じるのですが、そこがこの作品で表現されたものの1つ「都合のいい宗教へのアンチテーゼ」となっています。 神を信じればあらゆる罪が許され神を信じる自分が正しいという思想のもと行動しているヴィンセントにはそもそも悪事を働いているという意識はないのではないでしょうか。 そしてこのヴィンセントによって殺された人物の名前がアメリカというのも皮肉を感じざるをえません。 今回私が見たのは日本用にカットされたものだったのでアメリカの死のシーンが無くなっていてとても残念でした。後で調べたところ彼はロボットによって真っ二つに引き裂かれて死ぬというショッキングな死を迎えていました。 このシーンによって死の恐ろしさや人間の脆さ、ニンジャの行動などその後の感じ方にかなり変化が訪れるであろう重要なシーンだったであろうので大変惜しいです。 そしてアメリカとヨーランディを手にかけたヴィンセントはチャッピーによる報復を受けます。しかしここでも強烈な皮肉が行われます。神による許しの元で悪逆非道を行ったヴィンセントはロボットであるチャッピーによって許されるのです。 このシーンは単にチャッピーが優しかった。というだけではないでしょう。 宗教への皮肉、さらには今まで神への冒涜として下に見て、否定し続けてきたロボットから神と同じ施しを受けてしまうのです。大変屈辱的なことであると同時に、これによってこれから起こるラスト、チャッピー達ロボットが人間を超えた存在になる。という事を暗示しているのではないでしょうか。 あとチャッピーが自分が傷つけた人間に「許して」と反省し許しを請いていたという事と照らし合わせるのも面白いかもしれません。 ●そしてこの作品の中で最も重要と言えるラストのシーンについて ここでこのラストを語る為にユリ熊嵐の話もさせて頂きます。 ユリ熊嵐も多分なメッセージ性やテーマを持った作品ですがそのテーマの中に「集団というコミュニティの大切さと矛盾、そしてその矛盾から産まれる醜さ」「そしてそのコミュニティから脱して新たなコミュニティを形成して確立させる事の難しさ」があります。 ユリ熊嵐ではコミュニティを獲得することには成功しますが、彼女達の存在は凝り固まってしまった社会の中で受け入れられる事はなく否定されるという結末を迎えます。ただ否定されて終わりではなく彼女達は世界から脱して新たな場所に旅立ったという風に描く事で同じだけ救いを与えているのがこの作品の面白いところなのですが、そんな作品が最近あったことを踏まえた上でこのチャッピーについて考えると、ユリ熊嵐のもう1つのアナザーエンドとしてみる事も出来てきます。 チャッピーたちは人間を超越したロボットという新たな枠組みを獲得し、さらに作中では排除される事もなく社会の中で生存していくのです。 正直に言いますと私はチャッピーを見た後の第一の感想として猛烈な拒否反応を覚えました。 ユリ熊嵐で少女達が受け入れられず散って行く様を嫌という程見ていて涙していたくせにいざ受け入れられている存在を目にすると否定せずには居られなかったのです。 この2つの作品を見る事で改めて、自分と違う存在というものへの恐怖がどんなものかを思い知りました。 特に、ユリ熊嵐は大きくは精神の中での違いですがチャッピーはロボットという物理的に人間の存在そのものを脅かしかねない存在です。ロボットと人間では戦っても勝てそうにない、ロボットの方が優れているかもしれないと少しでも思わせられたら自分が全て否定されそうで怖くてたまりません。 ユリ熊嵐の中で異なる他人を思考もしない内にとにかく拒絶するというキャラクターが存在しており作中では悪のように描かれています。確かに思考を放棄するという行為は褒められたものではありませんが、世論の一部を切り取って突き詰めたようなキャラクターの行動を否定し切ってしまうということも出来ないと痛感しました。 チャッピーたちも彼らが生存を獲得してしまった以上、映画の続きを考えるとどんどんロボット化する人間が現れ遂には肉体をもつ人間が全て消え失せてしまうような結末が容易に想像出来てしまいます。新たな存在を受け入れるという事はそれだけリスクが伴うのでしょう。 新たな世界に踏み出す事は強烈で美しい事だけど現状に疑問を抱かず安住している者にとっては怖くてたまらない。 これがこの2つの作品を見た上での感想です。 ユリ熊嵐では新たな世界に踏み出した娘たちが主人公ですし、彼女達の姿を見て背中を追う決意をした少女がとても美しく描かれており終わった後はそちらの方に感情移入するのですが、チャッピーは主人公であり視聴者から好かれるようなキャラクターであるにもかかわらずロボットという現実でも起こりうる問題という生々しさからの拒絶を感じる事が出来るのでユリ熊嵐を見て何か感じる事が出来たような人にはチャッピーはとても楽しめる作品なのではないでしょうか。 意見の食い違いなどですでに起こっているユリ熊嵐での断絶、チャッピーで示唆された今後の人類を否定しかねない存在。どちらもとてつもないリアリティを持って視聴者にナイフを向けてきます。ロボットとなったヨーランディのボディが気持ち悪さを伴って人間に似せて作られたのも不気味さに拍車をかけます。 また私がチャッピーを受け入れられなかったのには最初からチャッピーがハッピーエンドを迎えるという思考が存在していなかった事も挙げられます。 冒頭で述べた「ロボットと人間のふれあいを描いた心温まって泣ける切ない話なんだろうな…そこにスパイスとして人間の残酷さとか…」というストーリーを予想していたように、私はチャッピーが世界から消えるという結末しか想定していませんでした。 人間が作った映画でロボットが人間より優れているように描写されたり、ロボットが受け入れられる事はないだろうという固定観念があったのです。 それを思いっきり覆されました。 チャッピーが意識をデータ化させようとした時も「人間では出来るかもだけどロボットだから無理だろう…」とか考えていました。 ディオンが意識を移した時も「ロボとーちゃんだ!」と真っ先に連想しました。クレヨンしんちゃんのロボとーちゃんは、本物のひろしに敵う事はなくロボットとして世界から消えるのです。(この映画を見て私は「あんまりだ!」といいながら泣いてます) しかしロボとーちゃんでも無かった。ロボットとなったディオンは偽物でも何でもなくまさにディオン本人なのです。 そして次にチャッピーが意識を遠くのロボットに移す時、私は「転送に失敗して一人ぼっちになったディオンは永遠に絶望して自害するんじゃ…」などという想像をしました。 しかしそれでもない。チャッピーの転送は問題なく終了して2人は一緒に工場から逃げ出すのです。 さらには死者すらも創造しはじめる。 「それはやっちゃいけないだろう」「タブーだろう」というよく分からない固定概念にまで容赦なく切っ先を向けてきている大変面白い映画でした。キャッチコピーの「なぜ僕を怖がるの…?」も見終わったあとに見るとゾッとしました。これは作中の人物に向けた言葉ではなく作品をみる視聴者に向けた言葉だったのです。 公開がもう終わっているような劇場もあるようなので、良かったら是非見に行って欲しい映画です!できればユリ熊嵐も頭に入れてて貰えるときっと更に面白いです。 では長くなりましたがここまで読んで下さってありがとうございました! 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